*novel touya.*


――見上げれば月が在った。
只高く、美しく、そして何より孤独であった。
幼いながらに
――あぁ、アレには一生手が届かないのだろう
等と莫迦なことを想いながら、ぼんやりと上を見上げていた。
目に月は映っていない。只、捉えているだけ。
上を見上げれば嫌でも目に入ってしまう位大きな月だった。
ふと、手とお尻が濡れていることに今更気が付く。
何でそんなところが濡れているのか、不思議に思って少し考えた。
「・・・・・・あぁ、そういえば座ってたんだっけ?」
月が銀の光で照らす闇に呟いた。と言うよりも、
自分に問いかけてみた様な気がする。
――答えは出ない。出ないからもういい。考えるのも億劫だ。
いい加減、月もこんなに高くなってる。そろそろ帰らないと。
感覚のない足で立ち上がった。帰るのも良いのだが、足場が悪く歩き辛い。
ここに来る前に通った森も、悪趣味な赤いカーテンなどぶら下げてよく見えない始末。
辺りは銀の光が神々しく降り注いでいて、
地面に転がる邪魔なモノを照らしているのに・・・・・・この周りだけ暗い。
この場所を中心に赤黒い地面が揺らめいている。
まるでここから闇が滲み出て、銀の光にも嫌われたように。
そう思うと少し悲しくなった。
今日はもう、ここまで一緒に来た子を見つけて一緒に帰ろう。
でも、あの子は探すのが少し難しくなった。
バラバラになってるからドレがあの子の体か判らないから。




ネオンライトや、店から溢れんばかりに出てくる光に埋め尽くされる時間。
歩きながら無意識に時計に目をやってみた。
短い針は頂点、長い針は少し右にずれていた。
  風俗の呼び込みや、罵倒、怒声などの声が聴きたくなくても聞こえてくる。
どこの街にも、昼間とは違う妖艶な街の顔が
その時間にはあることを再認識させられた。
だが、これは表の世界。都心など、街の中心の風景に過ぎない。
一歩郊外へと踏み出せば、辺りは打って変わり、
暗闇と静寂が辺りを支配していた。
とは言え、家から漏れてくる光や、街灯などがある。
稀に近所迷惑を顧みないような車や、バイクの集団とすれ違いもしたが。
更に街から離れる。最早街灯すらない。周りは漆黒の闇へと堕ちて逝く。
正に水が一滴滴る音でも聞こえるかもしれない、そんな静寂。
それでいて、その音すらも闇に吸い込まれそうな場所だった。
そんな場所から森の中へと歩を進めた。
何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。
五感のうち三つもの機能がまともではなくなる。
こうなることは、森に入る前から判っていた。
 まぁ、俺が歩く分には何ら問題はないのだが。
だが古来より伝えられる、鬼や魑魅魍魎、
そう言った類が存在するのならば、
相応しいと思う場所だと思いながら進んでいく。
葉が邪魔をする。木々が行く手を阻む。
そんな道無き道の向こうに・・・・・・俺の目指しているモノはいた。
いたというより、気配があった。
様子を見るためにさらに気配を消す。
「なぁ、今日の奴ら何処の莫迦だったんだ?」
 体格のいい男は、自分の手から滴り落ちる雫を嫌な顔で見つめた。
そして、下に落ちていた布切れで拭きながら、暗闇に向かい言葉を投げた。
「済んだ事でしょ? もういいじゃない」
言葉の向けられた方から女の・・・・・・いや、少女と思しき返事が返ってきた。
  「そりゃそうだけどなぁ。何となく気にならないのか?」
「別に。あたしそんなのいちいち気にしないから」
 男は布きれを地面に投げ捨てて呟く。
「・・・・・・神経の図太いヤツ」
 男の内心に思った事が、小声になって口から漏れたのだろう。
「聞こえてんのよ!」
少女は地面に落ちていたボールぐらいの大きさのモノを、
男に向かって投げつける。
不意をつかれた男は避けれずに直撃を喰らっていた。
「いてっ! 何すんだよ!? また汚れちまったじゃねぇか」
「可憐な乙女に向かって、神経が図太いはないでしょ!?」
 二人が今にも相手に飛びつきそうな声で口論を始めそうになった時、
暗闇から溜息がこぼれた。
「フゥ・・・・・・二人とも止めましょうよ。大人気ない」
この男は二人と違い、スーツを着込んだどこにでもいるような青年だった。
怖い。単純に恐ろしい。
見つかっていないはずなのに、殺される直前のような恐怖。
心が悲鳴を上げている。人間の形こそしているが、アレは違うモノだ、と。
必死に気配を殺していたが、理性が殺気立とうとしている。
本能が逃げようとしている。
元から三対一では勝ち目がない。
それに加えあんな化け物、相手になんて・・・・・・
正面向かって対峙するなんてできっこない。
 それでも何とか気配を殺すことに専念した。
「んだよ!? オマエにゃ関係ないだろ」
「マコトー。あたしアイツ嫌い」
 マコトと呼ばれた青年は女の子をなだめるように、頭へと手をおいた。
「はいはぃ。二人とも、その辺にしましょう。
シンヤも女の子に向かってデリカシーのないことを言わない」
大柄なシンヤという男は、自分で少なからず気にしていた事を言われて
ムッとした顔で黙った。
「それに、サキも可憐な乙女を自負するなら、
いきなり暴力は使わない事。いいですね?」
「だって、アイツが先に・・・」
「サキ」
マコトと呼ばれた男が静かに、だが強い口調で女の子の名前を呼ぶ。
流石にマコトに嫌われると思ったサキは、渋りながらも大人しく言う事を聞いた。
「・・・・・・はぁい」
 二人のやりとりをボーっと見ていたシンヤが口を挟んだ。
「あーあ。オマエはサキに甘すぎるっつーの」
「そうですか? 私はそんなつもりはないのですが」
 マコトはサキの頭に置いていた手を離す。
「俺を含めた仲間全員とに対する注意の仕方に比べると、
サキに対する注意の仕方が甘いんじゃないのか?」
「え、そうなの? シンヤ」
「もう、サキまで何を言ってるんですか」
 端から見ればマコトは極めて冷静に見える。
だが、僅かに動揺している気がした。
「お? 何照れてんだよ、マコト」
「何も照れてません」
「そぉかー。オマエはサキみてぇなガキが好みか」
「ですから違いますって。しつこいですね貴方も」
いい加減ウザかったのだろう。マコトはシンヤから離れた。
 だが、等のシンヤは知らん顔でまだ続けている。
「心配すんな。日本人の半分近くはロリコンかマザコンって雑誌に書いてあった」
 うんざりしてきたマコトは助けを求めるようにサキに話を振った。
「サキ。貴女からも何か言ってやってください」
 だが助けを求めた肝心のサキは、心此処に在らず。と言った様子だった。
胸の前で両手を握り、マコトを『恋する乙女』の様な輝く目で見ていた。
・・・・・・何となく今ならあの女を瞬殺できそうな気がするのは俺だけだろうか?
マコトはその後もシンヤにからかわれ続けた。
一方、サキは自分の世界の住人になり、
マコトにとっての救世主となってくれることはなかった。
マコトはこれ以上何を言っても無駄だと悟ったのだろう、溜息が漏れていた。
「溜息が多いな。もう老化が始まってんのか?」
 とニヤニヤしながらシンヤは肩に手をおいた。
「別に老化なんてしてませんよ。
まだ髪の毛もこんなにありますし、白髪もありません」
 グッタリ項垂れたマコトにサキが駆け寄ってきた。
「マコト疲れてるの? だったらあたしがマッサージしてあげようか?」
「結構です。心遣いだけ貰っておきますよ、サキ。
こってる所なんて特にありませんから」
「そっか。それはそうと、マコト。溜息が多い人は、その分幸せが逃げていっちゃうよ」
「さっきまで幸せでしたけどね」
 今までマコトをからかっていたシンヤは、
遊び疲れた子供のように大きなあくびを一つした。
「あ〜〜、ねむっ!」
「しょうがないですよ。ここのところ邪魔が多いですから」
「ホントホント。無駄なのに」
 シンヤは驚いたようにサキを見た。
「久しぶりに意見が合ったな。珍しいじゃん」
「あたしもおつむが弱くなったかなぁ?」
 再び口論の火種になりそうな気がしたマコトは、素早く次の言葉を紡いだ。
「さて、帰りましょうか。みんなそれぞれに、明日の生活がありますからね」
「あたしそろそろ中間試験があるんだよね・・・・・・」
 後ろでプルプル震えているシンヤをよそに、サキはマコトにくっついてきた。
「赤点だけは取らないように頑張って下さいねサキ」
「あたしそんなに頭悪くないよ」
「そうでしたね。・・・・・・さて、私も明日は早いですから失礼します」
「あ、まって。途中まで一緒に帰ろ。じゃ、またねシンヤ」
「おう。じゃーな」
 マコトとサキが見えなくなって
・・・・・・いや、元々見えないような闇の中だが。
 二人の気配が完全に消えて、シンヤは煙草を口に銜えた。
「フゥーー。やっぱ一仕事した後の煙草は美味いねぇ」
シンヤが空を見上げる。ちょうど隠れていた月が姿を現し、辺りを照らした。
彼の立っている周囲は、現実の場所ではないような光景・・・
その空間だけぽっかりと現実が穴を開けている。そんな場所だった。
 闇の一部から漏れだし、その場に留まっている様な黒と朱のコントラスト。
おびただしい数で広がる臓腑の海。
台風が通り過ぎた後の惨状の様にえぐられた地面。
それら総てが狂った現実を色濃く投影しているのに、
その中心に立つ彼は平然と煙草を吹かしていた。
この惨状は彼を含める三人で築いたものだろうから、当然と言えば当然だったが。
二人の気配が完全に消えた。頃合いだろう。
煙草を吹かしているシンヤを見据えて一声掛ける。



「良い日和だな。月が明るすぎて闇討ちには少し不適切な夜だけど・・・・・・」
 驚いた様子もこの惨状を見られた焦りも伺えない。
シンヤはただ無感情な言葉と視線を俺に向けた。
「・・・・・・誰、だ?」
 シカトする。臓腑の海は歩き辛いから嫌いなんだけど。
渡らなきゃあいつに届かない。
「もう一度だけ、聞く。テメェは、誰だ!?」
一言一句を区切り、ハッキリとした口調でシンヤは目の前に迫る俺に尋ねたようだ。
だが肝心の俺は朱と黒のコントラストに魅入られ、
血液が逆流しそうなくらい興奮している。
反面、頭は冷静なままだった。シンヤへと歩み寄る歩調も自然と早くなる。
 もう少し。もう少しでこいつを殺れる。そう思いシンヤの足下を見て気が付いた。
「その華と石・・・二足くらい遅かったか」
 その言葉にシンヤは少なからず動揺したようだった。
「どうやら迷子、って訳じゃねぇみてぇだ」
 シンヤがその言葉を言い終えた瞬間、この壊れた空間は更に壊れる。
否、俺が壊した。
シンヤと俺の距離まで十メートル弱。
人間と言うには余りにも不適切な跳躍力で、俺はシンヤまで跳んだ。
その手に、青光りする刃を持って。
 普通の人間ならば、反応すら出来ない状況だろう。
普通の人間になら、の話だが。
刺し穿つ気で向けた刃を、奴は容易くかわした。・・・・・・全く。
嬉しさのあまり口元に笑みが漏れるのが判る。
「良かった。俺の方も人違いって訳じゃないみたいだ」
「へぇ・・・・・・俺が誰か知ってるみてぇな口振りだな? ボウズ」
 シンヤも目つきは鋭いまま、口元に笑みを出していた。
それまで壊れてはいたが、普通と変わらぬ空気であった空間は、
その状態を保つのを止めた。
――周りがいつの間にか凍っていた。
 液体窒素の中に入れられた薔薇の様だった。
空気は凍り付いた様な感覚に陥った後、砕け散ったかのように思えた。
 息苦しい。殺気が見えてしまうのではないかと畏怖する位の殺意。
・・・・・・・・・・・・そう焦らないでくれ。
俺もお前を殺したくてしょうがないんだ。
 頭の中が目の前の敵を『ハヤクコロセ』と責め立てる。
恐らく無意識のうちに解放される垂れ流している殺意。
 瞬間、息苦しさはなくなった。
「ふぅん・・・・・・結構、力の使い方が上手いじゃねーか。
俺達以外でここまで出来るヤツがいたなんてな」
 心底嬉しそうな声で奴は言った。
「生憎と、力が使えるのはお前達だけの専売特許じゃないんだ」
言うな否や、無意識に俺の足は地を蹴った。
十メートルは離れていた木々の幹に飛びつき、それも蹴る。
それだけで木は大きくしなり、揺れた。
初めは周りの景色もある程度は判ったが、
今では俺の目に映るものはただの影だけだ。
――唯一つ、目の前に突っ立っている男をを除いて。
 シンヤは高速で向かってくる物体(俺)を避けると、
右手を自分の顔の前に翳(かざ)した。
 奴が何をしようが関係ない。
俺は勢いを衰える事もなく木の幹を蹴り、更に勢いを増す。
唯それだけの為に動く躰。
俺の体は少し悲鳴を上げていたが、殺意に消されていた。
シンヤとのすれ違いざまに刃を振り切る。
相も変わらずかわしているが、奴の目に先ほどの余裕はない。
俺の本能が猛り、叫ぶ。
もっと速く。もっと速く。これよりも速く。さらに速く。
速く、速く、速く、はやく、はやく、はやく、
ハヤク、ハヤク、ハヤク、ハヤク、ハヤク、ハヤク、
ハヤク・・・・・・あいつを切り刻みたい。
 すでに俺の眼にあるのは周りの闇。その一点に明るく、朱く光る奴がいる。
「悪いけど・・・・・・って悪くもないか。取り敢えず消えてもらう」
 最期だと言わんばかりに、漆黒の刃を一閃する。
一筋の白が光った後、血が宙に舞った。
仕留めた・・・・・・筈だった。
「なっ・・・・・・バカな!?」
信じられなくて思わず口にしていた。
 あり得ない。この速さの俺を捉えるなんてことは、あり得ない。
それまで自分の身体を浮かせる程の勢いで木々へと跳んでいた俺の身体は、
地面に足を付いていた。
 信じることができず、もう一度目を見開いた。やはり、現実だった。
剣の切っ先をシンヤの人差し指と中指の二本によって止められていた。
「いってぇ・・・・・・ちぃっと身が切れやがった」
 シンヤは少し仏頂面になり、視線を俺へと移す。
このままでは殺される。
そう思い俺はは剣を自分の手に戻すため、引き抜こうと腕に力を込めてた。
ピクリとも動かない。たかが指二本で押さえられているのに、
固まった氷のように動かない。
「良い線行ってたんだけどなぁ。相手が悪かったよ、テメェ」
シンヤの眼が更に鋭さを増す。すると辺りが凍り始める。
先程の様に空間が凍る様な錯覚ではなく、物質上、本当に凍り始めた。
「何処の何奴かは知らんけど、成仏してくれや」
「くっ!」
気が付かなかったが、いつの間にか剣を押さえているのとは反対の手中に、
大人位はあろうかという氷柱が形成されて握られていた。
 いや、気が付かなかったんじゃない。一瞬で形成したようだ。
力の差がここまでとは思わなかった。
刀を放して避けようにももう遅すぎる。
せめてちゃんとした装備で来れば良かった。
 だが、それ以前に無力な自分に憎悪した。
その憎悪を宿した眼でシンヤの眼を睨み付ける。
「結構楽しかったぞ。じゃぁ、逝ってこい!」

氷柱の先端が俺の顔に薄紙一枚まで迫った時にそれは起きた。
今まで静寂を頑なに守ってきた暗闇だが、
何かに呼応したのか、ざわめき出す。
風もないのに木々は揺れ、大地も微弱ながら揺れている。
 シンヤは舌打ちをして。
「今日は不思議な客が多いな。
出てこいよ、そこにいるんだろ? ・・・・・・多分」
と吐き捨て。自信がなさげに、俺の後ろの空間を凝視した。
周りの闇よりも、より一層深い闇の中に青黒い炎が浮かび、消えた。



この炎はあの女しかいない。
「凪咲(なぎさ)・・・・・・なにしに来た?」
声を投げかけた方向から、着物に身を包んだ若い女が出てくる。
俺がそう思うのも何だが、この女どこかずれている。
これだけの異常な状況を見たなら、普通は失神、
若しくは悲鳴をあげても良いはずだ。
 それに、どこか浮世離れした雰囲気。
たとえが悪いが、絵や彫刻がそのまま人になったようにすら思える。
 まぁ、普通の人間ではないのだから当たり前なのだが。
「貴方を助けに馳せ参じました」
 澄んだ声で凪咲は俺の目を見据え、凛と応えた。
 ・・・・・・何故か勺に障る。
「いらない。そもそも、俺の周りを二度とうろつくな。って言っただろ?」
「・・・・・・そうもまいりません」
「いいから帰れって」
「そうは言われましても、あなたはその状況でどう脱出なさるおつもりですか?」
「脱出できるかどうかなんて判らない。
けど、このまま死んでもお前に問題はないだろ?」
「問題は大ありです。ここで貴方に死なれる訳には参りませんので」
「どーでもいいけど・・・俺の事激しく無視しないでくれるか?」
「あ」  二人とも同時にハモっていた。
そういえば、俺はシンヤに掴まれているという事を思い出す。
「なぁんかシラケちまったな。殺る気が起きねぇ」
 シンヤの掴んでいる腕が緩んだ。
「お互い様だ」
正直殺る絶好のチャンスだったのだが、
俺の方もしらけてしまいそのまま着地する。と同時に、
シンヤの殺気が薄れ辺りを囲んでいた氷も気化していった。
 しかし、凍り付くような殺気は未だに発しているようだった。
多分いつでも俺を殺れるという威嚇なのだろう。
「今回は見逃してやるよ。命拾いしたな、ボウズ」
「別に・・・・・・あのままやられてても、ただじゃ死ななかったさ」
 因みに本当のことだ。
「口の減らねぇヤツ・・・・・・まぁいい。オマエ、名前はなんて言うんだ?」
「・・・・・・・・・・・・」
 名前を教え、住所を調べ上げられ、都合の悪いときに
襲撃されるのは莫迦か純度100%の天然お人好しの考えナシがやることだ。
「安心しろって。住所調べて襲撃、なんて事は興味ねぇ。
もちろん他のヤツにも言わねぇよ」
思っていたことがばれて、少し驚いた。
まぁ、この言葉に嘘はないようなので、とりあえず名前くらいは教えておこう。
「・・・・・・不破龍鬼(ふわりゅうき)」
 凪咲がそ音もなく俺の横に近付き、そっと耳打ちしてきた。
「こうも簡単に、自分の姓名を敵に教えるのも問題があると思われますが・・・・?」
「凪咲には関係ない事だ」
 目の前では嬉しそうにニヤッとシンヤが笑っていた。
「へぇ。龍鬼ね・・・・・・憶えといてやるよ。俺は審哉(しんや)。霜月審哉だ」
「別に覚えて貰う必要はないんだけど・・・・・・あんたが霜月か」
「まぁね」
「コレ、あんたが全部一人で?」
周りにゴロゴロ転がっている死体に視線を移す。
シンヤも釣られて視線を移すが、鼻で笑った。
「そこまでは教える義理はねぇな」
「それもそうか」
ごもっともな意見が帰ってきた。俺がこいつの立場でも同じ事をするだろうし。
どうせ三人いたのは判っているので、別に誰がやろうと、関係はない。
「んじゃ、俺は帰らせてもらうぞ。明日大学の講義があるんだ。
コレ出なかったら単位落ちちまうからな」
「さっき、そこまで教える義理はねぇ。って言ってたのより、
もっと深い事を自分で喋ってるんじゃないのか?」
「ぐ・・・・・・別にいいだろ。オマエも早く帰ったらどうだ?
明日の学校遅刻しちまうぞ」
「何で俺が学生だって解んだ?」
今日は私服で来ている。考えられるとすれば、
俺が登校時に審哉に見られていたということだけだ。
だが、そんな甘い考えは次の瞬間、砕けた。
審哉は勝ち誇ったかの様に、ズボンのポケットから薄い皮の手帳を取り出した。
「オマエの生徒手帳だろ。コレ」
 さっきまで胸ポケットにしまっておいたはずのものが
いつの間にか目の前にいる男の手中にある。
 言いようのない感情が心の中に渦巻いた。
「ッ!?」
「いつの間にって面(つら)だな。さっきオマエに名前を聞いた時だよ。
教えてもらえなかったら、って思ったから、保険でな」
 審哉は感心したように、人の生徒手帳を勝手にめくっていた。
「へぇ〜、神薙(かんなぎ)学園の2年生か。
あそこの偏差値高いのになぁ・・・・・・オマエ頭いいのか!?」
 再び審哉を睨み付ける。
「おいおぃ、そんなに怖い顔すんなよ。さっきも言ったろ!?
 いきなり奇襲ってのはしねぇって」
ホラと言って審哉は手帳を龍鬼に返した。
「ま、次に俺と戦う時には、これくらいの動きには付いてこれる様にするんだな」

「海蒼(かいそう)大学2年・医学科、霜月審哉。二十歳・・・・・・」
 それまで美術品のように身動きせずに
佇んでいた凪咲が、意味不明なことを喋りだした。
「な!? テメェ何でそれを!?」
 凪咲の小さい手には学生証があった。
先程の審哉のお株を奪うかの様だった。
「もし龍鬼様に近付いた時に、危害を加えていたなら
この程度では済ませませんでした。
次からは気を付ることですね」
彼女は先程の審哉とは違い、勝ち誇った様な素振りは見せはしなかった。
いや、無表情だった。おおよそ感情というものがないのか、
現れた時から表情は変わってはいない。
 だが、一方その態度が審哉のプライドを傷つけたのか、
体が小刻みにふるえている。
「先程、龍鬼様を侮辱した言葉、そのままお返しします。
次に相見える刻には自分の懐にはお気を付けて・・・・・・」
「テメェ・・・・・・さっきの力といい、今の速さといい・・・なんなんだ!?」
 ふと沈黙した後、ここに来て凪咲は初めて表情を崩した。
凪咲の表情は滅多に見れるものじゃない。
 凪咲は微かに笑っていた。

俺の目に、その笑いは審哉に対する嘲りの笑いではなく
自嘲するような笑いに見える。
「古より時を紡ぐことも忘れた者です」
「凪咲・・・・・・」
「ちっ! 訳わかんねぇし、面白くねぇな。
これもさっきも言ったが、明日講義があるから帰らせてもらうぞ」
審哉はつまらなそうに深淵の闇へと溶け込み、やがて・・・気配も消えた。
再び辺りは漆黒に包まれ、静寂な死の蔓延した空間が訪れた。
俺も凪咲も何も語らない。
  肉の塊や、風で赤黒く波打つ水面。そしてそれ以上に存在感のない凪咲。
何一つ凪咲に語ることもない。ここにいても、時間の無駄だ。
踵を返し、元来た道を戻る。独り月を見上げて佇む凪咲を横目で見た。
相も変わらずの無表情に戻っており、俺はそのまま帰路に就いた。

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